治安維持法

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟とは

1968年200名の犠牲者が創立。

2020年1月時点で16000名が参加して再び戦争と暗黒政治を許すなと運動しています。

治安維持法犠牲者国家賠償法の制定を要求しています。

治安維持法 歴史年表

1921年8月20日 自由法曹団結成

1922年7月15日 日本共産党創立大会

1923年9月2日 関東大震災 戒厳令 9月4日 亀戸事件

1925年(大正14年) 法律第46号。大日本帝国憲法体制下で、「国体」・立憲政体の変革や私有財産制度の否認を目的とする運動を予防する目的で制定。1925年(大正14年)4月22日に治安維持法が公布され、同年5月12日に施行。(普通選挙法とのバーターで戦略的に制定される。)  3月29日普通選挙法成立

1926年1月15日 学生社会科学連合会事件 治安維持法違反事件第1号 野呂栄太郎ら検挙

1928年2月20日 普通選挙法後初の選挙で労農党19万票獲得(2%)山本宣治ら当選

1928年(昭和3年) 徳田球一の第1回普通選挙に労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過す。

1928年3月15日3・15事件 全国で1600余人逮捕
志賀義雄 1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙

治安維持法改正で最高刑が死刑になり、結社員だけでなく結社と関係する者(シンパ)も取り締まりの対象に

1928年6月29日 最高刑を懲役10年から死刑に改悪。

1928年7月3日 特高警察全県配置。 思想係検事各地裁配置。

1928年10月、 渡辺政之助は台湾のキールンで自ら命を絶つ。

1929年3月5日 治安維持法事後承諾案に反対した山本宣治 内務官僚使嗾の右翼防寒に刺殺される。

1929年4月16日 4・16事件 全国で1000余人逮捕。

検挙された伊藤千代子は夫にも裏切られて1929年肺炎で死去。

1930年    三木清が共産党への資金提供容疑で検挙される。

1931年9月18日 満州事変(柳条湖事件)

1932年1月と8月 上海事件

1932年10月、 岩田義道逮捕後4日で拷問虐殺。

1933年2月  逮捕された九州地方委員長の西田信春氏は30数年後に虐殺されていたことが判明。

1933年2月、 上田茂樹が消える。今日でもその消息が分かっていない。

1933年2月4日 長野県で教員一斉検挙 2・4事件始まる。

1933年2月20日、小林多喜二は逮捕後7時間の拷問で虐殺。

1933年3月、  高島満兎は特高に追われ2階から飛び降りて脊髄複雑骨折、1934年7月半身不随のま

ま死去。

1933年5月   検挙された飯島善美は2年後に獄死。

1933年11月  スパイ大泉兼蔵の手引きで逮捕された野呂栄太郎は1934年2月に獄死。

1933年12月  検挙された田中サガヨは1935年5月死去。

1934年2月19日 野呂栄太郎 品川署の拷問で絶命。

1934年10月20日、高橋とみ子宮城県の留置場をたらいまわしにされたあげく、11月21日県北の中新田

(なかにいだ)警察署で殺されました。警察は自殺と発表して、拷問死を覆い隠し、真

実がわかったのは戦後になってからでした。

1934年(昭和9年)12月、宮本顕治市ヶ谷刑務所未決監

1936年7月10日 日本資本主義発達史講座 執筆の平野芳太郎ら30余人検挙。

1937年 袴田里見 治安維持法違反で検挙(1925年(大正14年)モスクワのクートベ(東洋勤労者共産

主義大学)で学び、昭和2年ソ連共産党に入党。3年帰国後、宮本顕治らと日本共産党再建運動に

従事する。

1937年7月7日  日中全面戦争始まる(盧溝橋事件)

1937年12月 南京虐殺。

1937年12月15日 第一次人民戦線事件446人検挙。

1938年   国家総動員法制定

1938年11月29日 唯物論研究会 戸坂潤嗾ら幹部検挙。

1939年5月 ノモンハン事件(満州国とモンゴルの境をロシアと闘う

ロシア57000人 日本25000人 ハルハ河を挟んでホロンバイル平原で 塹壕100キロ ロ

シア戦車800 日本無し

フイ高地で井置中佐大敗 軍法会議も無しに自決を迫られる。小松原中将の撤退 責任を

井置に押し付ける
後日姫路の井置を訪ねる 200名が捕虜になる 自決を迫られる

1940年4月6日~ 生活綴り方教室関係者110人検挙。

1941年    予防拘禁制の導入と罰則強化を盛り込む治安維持法の改正(3月)
太平洋戦争始まる(12月8日)

1941年3月10日 治安維持法改正 予備拘禁制度導入
神社や皇室に対する冒とく罪まで加えた。
「戦争はいやだ」と言っただけで「治安維持法」で逮捕された人は数10万人にのぼると

され、厳しい拷問にあいました。
政府統計司法省調査でも75,681人が送検。5,162人が起訴。逮捕者は数10万人。
全国で虐殺された人は93人、獄死者などは421人で、1,503人以上が、拷問や虐

殺・病気などで命を落としています。

1941年12月9日 開戦非常措置として宮本百合子他1000人以上検挙。

1942年7月6日 創価教育学会弾圧事件 牧口ら幹部大量検挙。

1943年3月、  国領五一郎獄死。

1943年7月6日、創価学会初代会長牧口常三郎さんと、二代会長戸田城聖さんは、治安維持法違反と不敬

罪で逮捕をされ、初代会長の牧口常三郎さんは獄死をされている。

1943年3月15日 大阪商大事件 学者・学生ら10数人検挙。

1944年1月~ 横浜事件 中央公論 改造編集者ら検挙。

1945年3月、  市川正一獄死。

1944年7月10日 中央公論 改造誌に廃刊命令。

1945年8月6日 8月9日 広島 長崎に原爆投下。

1945年8月9日 戸坂潤 獄死 長野

1945年8月10日 ポツダム宣言受諾

1945年9月26日、三木清獄死。(兵庫県たつの市出身、三木清は、西田幾多郎の愛弟子の一人、共産党

員ではなく、首相を務めた近衛文麿の政策研究会の一員) 奥多摩

河上肇・・相沢良・高橋とみ子・田中サガヨ・・古川苞 ・公爵の娘=岩倉靖子・司法官

赤化事件・新島繁・池田勇作・古川友一・遠藤元治・藤本仁太郎・鵜沼勇四郎・尹 東柱

(ユン・ドンジュ)

1945年10月4日、 GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司

令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞

職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ

基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高

等警察も廃止を命じられた。

1945年10月4日 にGHQにより「政治的・公民的及び宗教的自由に対する制限除去の件(覚書)」が発布

されて、廃止。これがもう少し早く出されていたら三木清は獄中死しなくてよかった。

1945年10月10日 政治犯約3000人釈放? 2020秋記号40号では500名。

1945年10月15日 治安維持法廃止 内務大臣 警保局長以下4990名を免職。

河上肇

【河上肇の命日に思う】
今日は、日本を代表するマルクス経済学者であった河上肇の命日です。75年前の1946(昭和21)年1月30日、京都大学に隣接する自宅で息を引き取りました。66歳でした。
もともと人道主義者でしたが、教え子でもある櫛田民蔵からの厳しい批判を受け入れ、マルクス経済学に傾倒し、いま話題の『資本論』の翻訳をします。
しかし、1928(昭和3)年、文部省が帝国大学から「危険思想」をもった教官を排除することを決め、総長を通して、河上に辞職を迫ります。その根拠がでたらめで、河上は拒否しますが、経済学部教授会が、事実上、辞職容認姿勢をとったため、潔く辞職して、社会主義運動に入っていきました。
すぐに検挙、投獄され、獄中生活を送り、1937(昭和12)年に出獄し、『自叙伝』を書いていきます。太平洋戦争が始まる直前の1941年に京都に居を移し、以後は静かに生活を送っていましたが、わずか5年余りで亡くなってしまいました。
その時、経済学部長をしていたのが、蜷川虎三でした。彼が、1969年に経済学部からのインタビューを受けた時に、この時のことを回想しています(『思い出草』)。1946年1月30日の朝、河上肇死去の知らせを受け取り、河上の枕元にかけつけた蜷川は、通夜の席で、「責任を感ずるっていうことを言うのと、もう河上さんも世を去られたらね、われわれも世を去ってもいいんだっていうような」挨拶をしたと述べています。
実は、河上辞職を「容認」したあと、瀧川事件(京大事件)が起きますが、経済学部教授会は反対声明も出せず、逆に戦争協力にまい進し、学生たちの多くが戦場に行き、戦死しました。蜷川の胸中には、河上辞職を「容認」してしまったことが、その後の経済学部、京大、そして日本全体が戦争に向かって暴走する切っ掛けになったのではないかという深い後悔の念があったのではないかと思います。
2月に入り、蜷川学部長は、教授会に「総辞職」を提案し、合意の上、実行に移されていきます。当時の新聞は、経済学教授の「総退陣」と書きました。二度と戦争に協力しない大学、学術界をつくる。その決意は、ひとり京大経済学部だけではなく、理系も含め、学会全体に広がり、日本学術会議の政府からの自立を図る動きにつながっていったといえます。
新聞報道によると、菅内閣は、日本学術会議からの要請を拒否し、改めて学術会議会員として排除された6名の任命拒否をしました。このような政治が、どこに行きつくかは、すでに歴史が示しているところです。蜷川たちの後悔を、現代において再現しないようにすることが、私たちのつとめではないかと思います。
併せて、京都帝国大学で20年間、教育、研究に励んだだけでなく、経済学部創設はじめ学内行政においても多大な貢献をした河上肇に対して、京都大学は名誉教授の称号を贈るべきではないかと思います。京都大学は、来年6月に、創立125周年を迎えます。これを機にぜひ、実現してほしいものです。

スパイ

大泉兼蔵

1933年12月23日、警察に内通したスパイであるとして、小畑達夫とともに東京府東京市渋谷区幡ヶ谷の党アジトで査問を受け、スパイであることを自白した

市木春秋=戸高公徳

菅生事件

事件のあと東京に潜伏しているところを、共同通信の記者に摘発され、裁判にかけられます。ところが、戸高公徳は、警察では、その後は格別に優遇され、警察大学校の教官になったり、警察共済組合の幹部にまで昇進したのです。

三船留吉
日本共産党 員でありつつ、 特別高等警察 ( 特高 )の スパイ として活動した。 「 小林多喜二 を売った男」として知られている。 経歴 秋田県 由利郡 川内村 (現 由利本荘市 )生まれ。 1928年 頃に上京し、旋盤工として働きながら、 1930年 10月、全国労働組合同盟(全労)亀戸分会に加入、東京・下町の 労働運動 に参加した。 やがて非合法の組合運動に接近する中で、検挙・拘留を繰り返し、1930年頃 警視庁 特高課 毛利基 直属のスパイとなった

転向者

水野茂夫

治安維持法で投獄されて転向の先兵 初代赤旗編集長 フジテレビ初代社長

治安維持法弾圧犠牲者数とは

A 警察署での拷問による虐殺者 93人

B 服役中・未決拘留中の獄死者 128人

C 服役中・未決拘留中の暴行・虐待、劣悪な環境などによる発病で出獄・釈放後死亡した者 208人

D 弾圧で再起できず自死 25人

E 宗教弾圧での虐殺・獄死者 60人

F 検挙者数 28,274人

G 起訴者数 6,550人

H 起訴猶予 7,316人

I 検束・拘留者数 数10万

世界の戦後補償

ドイツ 1956年連邦保障法制定。 2010年までに8兆8500万円を補償。

イタリア 終身年金支給

アメリカ 1988年市民的自由法制定。 強制収容した日本人6万人に対して一人250万円を支給。

カナダ 1988年法制定時17,000人に250万円支給。

韓国 愛国者として表彰し、懲役1年以上の犠牲者に毎月16万円を支給。

402地方自治体が治安維持法犠牲者に謝罪を求める意見書採択。

生存者が40名を割っている。

治安維持法関連リンク

日本共産党ホームページの治安維持法>
小林多喜二が殺されたのは何故
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟兵庫県本部
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部

太平洋戦争開戦69年 治安維持法犠牲者 市吉澄枝さんにきく

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟加古川支部の歩み

2001年 結成準備会 和田進 神戸大学教授

2002年12月8日 結成大会 佐野陽三 県本部

2003年 第2回大会 井ノ口薫 「非国民の子」

2004年 第3回 柳河瀬精 「特高の戦後を告発する」

2005年 第4回 筒井もとじ 「国民保護法制と暮らし」

2006年 第5回 林直道 「構造改革と格差社会」

2007年 第6回 藤木洋子 「権力犯罪は許されない」

2008年 映画 同盟結成40周年記念集会

2009年 第7回 津川知久 蟹工とBABYと

2010年 学習会 「歴史の過ちを1日も早く」

2012年 第8回 言論封殺 暗黒社会を再びもたらせない

2013年 第9回 副島 「人間を返せ 原爆裁判」

2014年 第10回 「侵略戦争礼賛の日本」

2015年 第11回 堀内照文 国会報告

2016年 第12回 大橋豊 レッドパージ被害者

2017年 第13回

2018年

2019年

2020年

2021年

2022年

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