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ソ連による日本共産党への内政干渉問題

日本共産党の誕生

1921年4月、堺利彦・山川均・近藤栄藏らによって日本共産党準備委員会結成。「日本共産党宣言」「「日本共産党規約」をコミンテルンに送付。1922年7月15日、進歩と革命の伝統を受け継いで日本の労働者階級の前衛によって創立。1922年11月コミンテルン第4回大会で承認。コミンテルン日本支部・日本共産党として認められる。

ソ連との1950年問題

日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。
これに対し、
1950年1月6日、コミンフォルム論評。
1950年、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。
スターリンは、中国共産党の劉少奇と一緒になって1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。
1950年6月6日、マッカーサー日本共産党中央委員を公職追放。
1950年6月7日、徳田球一・野坂参三「北京機関」結成。
1951年2月4全協。
1951年4~5月、スターリン51年文書を発表して武装闘争方針を押し付ける。
1950年4月第19回中央委員会総会の後で、意見の違う宮本らを排除して、徳田球一が野坂らを自宅に集めて非公然活動に入ることを決定。
1951年10月5全協で武装方針を採択。
1951年8月、コミンフォルムの機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」が「分派主義者に対する闘争に関する決議」を掲載。
1955年7月、6全協で統一の回復めざす。
1957年10月、第15回拡大中央委員会で「50年問題」総括。
1958年7~8月、第7回大会。綱領確定保留

当然、この路線は破たんしました。そして、日本共産党が統一を回復した第七回党大会(1958年)、現在の綱領を確定した第八回党大会(1961年)にすすむ過程で、(1)徳田、野坂らが党を分裂させたことの誤り、(2)ソ連・中国などの干渉に追随したことの誤り、(3)武装闘争路線を持ち込んだことの誤り――を明確にし、それを根本的に克服するなかで、今日の党の路線が確定したのです。

85周年記念講演では、

1950年にソ連の指導下の国際機関であるコミンフォルムが、続いて中国共産党が、日本共産党に公開の論文で批判を加えてきた時には、党内に一時的には混乱も起こりました。しかし、全体としては、経験の深い友党からのまじめな忠告だと受け止めた党員が多数でした。ところが実は、これは友党のまじめな忠告などではなく、自分たちの思惑と都合から日本で武装闘争を起こさせようと考えたスターリンとソ連共産党の干渉作戦の幕開けだったのです。その筋書きは、党の指導部の中にソ連の言いなりになる分派、いま「徳田・野坂分派」と呼んでいますが、これをつくらせ、党の中央委員会を、アメリカ占領軍の弾圧に乗じて解体する、そして北京に秘密の指導機関をつくり、そこを通じてスターリンが計画していた武装闘争方針を運動に押しつける、こういうものでした。

この干渉は、戦後多くの党員の活動によって営々と築かれてきた国民との結びつきを断ち切り、取り返しのつかない深刻な打撃を党に与えました。実際、干渉の前の年、一九四九年一月の総選挙で党は二百九十八万の得票を得、三十五人の議員の当選をかちとりましたが、干渉作戦が始まったあとの五二年の総選挙では、得票は八十九万票に減り、当選者はゼロという最悪の結果に落ち込みました。

これを私たちは「五〇年問題」と呼んでいます。

81カ国宣言

1950年問題を契機に日本共産党は、“自分の方針は自分で決め、外国のどんな党の干渉も許さない”という自主独立の原則を決定しました。
1959年2月、ソ連共産党第21回大会で南千島返還を要求。
1960年11月、この論争を解決し、国際的な共通の運動路線を確立するために、81カ国労働者党代表者会議が開かれることになりました。これは、第2次世界大戦後、最初の国際会議であり、そしてまた、結局はこの種の会議の最後の開催となったものでした。

当時、共産主義運動は世界でかなり大きな勢力をもち、そのなかでは、ソ連がスターリン時代以来の圧倒的な支配力を持っていました。国際会議には81カ国の党が集まりましたが、そのなかで事実上ソ連の支配下にあった党が76と、圧倒的多数でした。とくに、資本主義世界で活動している69の党のうちでは、自主独立の立場をとった党は日本共産党だけでした。

11月の本会議の前に、予備会議が10月に開かれ、ここで共同声明の草案が討論されました。この会議で、宮本顕治同志を団長とする代表団は、ソ連共産党が中心になって用意した原案にたいし、80項目を超える修正案を提出しました。高度に発達した資本主義国での革命の戦略問題や、共産党間の関係での対等・平等性、自主独立の原則など、多くの重要な提起をおこない、間違った主張にたいしては断固とした論戦を展開しました。

1964年部分核停条約

ソ連は、60年会議の直後から、日本の党指導部内に内通者をつくる工作をはじめ、日本共産党打倒作戦をすすめ始めました。

それが表に出て、ソ連の干渉攻撃との全面的な闘争が始まったのが1964年であります。海を越えての攻撃だけではなかったのです。内通者を動員して、全国に「ニセ共産党」の組織をつくり、それを日本共産党にとってかわらせる。こういう目的をもった干渉で、当時の国際運動の中でも、前例のない、まさに無法きわまる攻撃でした。日本共産党は、64年以前は、ソ連共産党との論争や干渉行為への批判は、運動内部の問題として、国際ルールを守って、こちらからは公表しないでいました。

だから、64年に始まった干渉攻撃は、全党の目から見ると、まったくの不意打ちで、突然始まったものでした。

「志賀除名問題」である。昭和39年5月に、国会で部分核実験停止条約を承認したが、共産党のみが反対投票をしている。この時共産党で党議決定に反して賛成したのが志賀義雄衆議院議員と鈴木市蔵参議院議員である。

ソ連共産党は、機関誌「プラウダ」に志賀の声明全文を掲載するなどして彼らを支持した。
日本共産党はこの二名を除名したのだが、これを機にソ連共産党と日本共産党の関係は決定的に悪化した。

つまり日本共産党は、ソ連共産党と必要に応じて協力こそすれ、ソ連共産党に従属しない、という路線を採用したのである。これと軌を一にするかのように、この前後からソ連共産党と日本社会党の関係改善が進み、社会党内の親ソ派の攻勢は強まった。

昭和39年2月15日、ソ連共産党中央委員会でスースロフの演説「国際共産主義運動の団結のためのソ連共産党のたたかいについて」がなされた。
スースロフ理論とは、ソ連などの共産主義諸国やその同調者を「社会主義・平和勢力」、日米欧を「帝国主義・戦争勢力」と名付けて、世界や国家を二分し、世界中の「反帝・平和勢力」にソ連邦を中心に結束するように訴えた、冷戦の論理だった。

その核心は、「反核」(この場合の「核」は帝国主義・戦争勢力の核のみを指す)運動であった。スースロフ演説以降、「非武装・ 中立」の概念は石橋派や社会主義協会派などの親ソ派によって社会党内に持ち込まれた。

私自身、この年の3月、労働組合の活動から党本部に移って、理論政策活動の任務に就いたとき、60年以来のソ連との論争の経過や、ソ連大使館を拠点にした日本国内での干渉攻撃の実情をはじめて知りました。

ところが翌4月には、ソ連共産党から日本共産党への非難・攻撃の書簡が寄せられました。続いて5月には、党幹部で国会議員だった志賀義雄らが、ソ連に追従して反党分派の旗揚げをする。こうして、これを支持するソ連共産党との公然の論戦が始まったのです。

8月末、私たちは、ソ連側の批判に全面的に反論し、数年来の干渉行為を具体的に告発する「返書」をソ連に送りました。この返書を、私たちは9月2日の「赤旗」に発表しましたが、どんなものであったかを紹介するために、そのコピーをここにもってきました。(コピーを手にして)返書は「赤旗」の1面から始まります。論文ではなく相手への手紙ですから、途中、章の区切りはあっても、内容を示す見出しは何もありません。それが8ページも続くのです(どよめき)。当時、「赤旗」は8ページ建てでしたから(笑い)、その日は特別に12ページ建てにしたのですが、続いて掲載したソ連の書簡が2ページ余り、最後のページはテレビ・ラジオ欄ですから、一般記事は「潮流」欄を含めて1ページに満たない紙面になりました。

これを全国に配布しましたから、読者はびっくりしたでしょうが、これを身につけないと、干渉者とたたかえないのです。なにしろ相手は、海を越えた彼方にいるだけではない。各地に「ニセ共産党」をつくって、攻撃してくるのですから。必死になって、この日の「赤旗」を勉強したものです。

わが党は、この闘争に全力で取り組みながら、国内政治での躍進をかちとりました。衆議院で14議席をかちとった69年総選挙、39議席で野党第2党に躍進した72年総選挙、これらの前進もこの激烈な闘争のなかで成し遂げたものでした。

そして、干渉の暴挙に出た二つの党も、最後には、自分たちの誤りを認めざるを得なくなりました。ソ連は、干渉攻撃の開始から15年たった1979年12月、両党会談で干渉の誤りを公然と認めて反省の態度を示しました。
しかし、ソ連アフガニスタン。侵攻

スターリンの大国主義

スターリンの大国主義・覇権主義の誤りが国際政治の舞台でむき出しに現れたものとして、ヒトラー・ドイツとの「秘密議定書」、バルト3国併合、千島列島の占領などをあげました。スターリン死後もその誤りは、チェコスロバキア侵略、アフガニスタン侵略などと引き継がれました。「バルト3国とアフガンは、ソ連崩壊の引き金になりました」と歴史の皮肉を語ります。

1991年にソ連が崩壊し、世界はどうなったか。日本共産党は、ソ連共産党の解体にさいして発表した常任幹部会声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」で、「世界の平和と社会進歩の勢力にとっても、日本共産党のたたかいにとっても、巨大なプラスをもたらすものである」との立場を表明しました。「今、このときの予見をはるかにこえて、世界が生きいきしてきました」と指摘しました。

志位さんは、中南米各国の左派政党が参加する「サンパウロ・フォーラム」が、ソ連崩壊をきっかけに、新自由主義ノーの声を上げ、新しい社会主義への展望をかかげるとりくみを紹介。「ソ連が本当になくなってよかった」と感慨を込めて話すと、会場からも共感の拍手がおこりました。

科学的社会主義というルネッサンス的理論的発展

自主独立の立場で科学的社会主義の「ルネサンス」を

ここで強調したいのは、わが党が、自主独立の立場を政治行動の分野だけにとどめず、理論活動の分野でもその立場を貫いたことであります。

世界の運動のなかでそれまで国際的定説とされていたのは、ソ連中心に築き上げられてきたカッコ付きの「マルクス・レーニン主義」でした。私たちは、1976年の党大会で、ソ連流の「マルクス・レーニン主義」と手を切ることを決定し、マルクスの理論そのものの自主的探求とその現代的発展に力をつくしてきました。

私は5年前、党創立90周年の記念講演で、科学的社会主義の「ルネサンス」について述べました。

「われわれが半世紀にわたって取り組んできたこの仕事は、スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の『ルネサンス』をめざす活動とも呼ベるものだ、と思っています」

こういう仕事をやりとげてきたからこそ、世界を揺るがせたソ連の崩壊という激動の中でも、日本共産党は、科学的社会主義の旗を断固として守り、ソ連とそれを支配したスターリン主義の「巨悪」の実態の科学的な解明に取り組むことができたのであります。

2004年に採択した党綱領は、その輝かしい成果であります。(拍手)

わが党が、社会主義の「ルネサンス」を体現する党となり、政治活動のうえでも、理論活動のうえでも、資本主義世界で最前線に立つ党となっていることを、祝賀しようではありませんか。